「入門コースは難しいからマスタークラスに入った」~入門こそもっとも奥が深い教えであるということ

 「入門コースは難しすぎてついていけなかった。だから、マスタークラスに入った」……これは、アレクサンダーテクニークを共に学んでいる、あるクラスメートさんの言葉です。

 ちょっと面白いと思いませんか?「なぜマスタークラスに入ったのか」という問いに答えた言葉なんです。マスタークラスのほうが難しいのではないの?……と、その言葉を聞いた殆どの人が感じたようです。この言葉の裏にある大切な事を探求してみましょう。

 「マスタークラス」とは、アレクサンダーテクニークの教師になるためのクラスのこと。入門コースでは生徒さんが、自分の日々の生活の中で「これ、もうちょっとうまく出来るようになりたいなぁ」という活動をレッスンに持ち込んできたものをズバズバと改善していきます。いわば、超魔術のオンパレード。超絶技巧を連発する魔法のひととき。

 いっぽう、マスタークラスは先生になるためのクラスですから、基本からみっちりやります。どんな生徒さんがどんな悩みを持ち込んできても対処できる自分を作り上げていくためのくらすです。だから、《なんでアレクサンダーテクニークが、あれこれの改善に役立つのか》という切り口を持ちつつ、各自の活動をレッスンで改善してゆくのです。マジックの種明かしをしながら、超魔術を自ら再現できるように学んでいくのです。

 もう、冒頭の言葉の意味がおわかりいただけたでしょうか。「入門コースは難しすぎてついていけない」というコトの意味……。逆説的に響きますが、至極まっとうな感想なのです。

入門コースの教授にこそ深い理解が必要

 さて、教師にとっては、「入門コース」こそ、もっとも深い理解を必要とするコースです。楽器を初めて持つ人に何をどう教えるか……なぜそのように教えることを選んだのか、なぜ他の選択肢を採らなかったのか……じつに奥深いものがありそうです。

レベル1~教わったままを伝える

 僕が、後輩たちにバイオリンを教え始めたときには、教わった言葉をただ口伝していただけでした。意味もわからず、ただ言葉を伝える。自分が出来ているかいないかは関係なく、そして、後輩たちが出来ていてもいなくても、言われた教えをただ唱えるだけ……みたいな感じ。

 この方法はパワフルでした。ある意味ではパーフェクトな教授法かも知れません。教えの背景にあるものを知らずして果実を得られるという意味では、最短コースかもしれない、と思います、いまでも。

レベル2~工夫が始まる

 僕自身が「上達する面白さ」や「探求・発見の面白さ」に目覚めるようになると、教え方に変化が生まれました。師匠の教えだけではなく、自分の発見や体験を織り込み始めていくようになりました。しかし、自分の発見や体験が必ずしも良い作用をするとは限らないんです。むしろ逆効果となって学習者である後輩たちにとっては理解の妨げになることもあったように思います。

 学習者にとっては、バイオリンを演奏する事ができるようになればより短時間で同じ成果が得られる方が嬉しいのです。回り道は不要といえます。より少ない投資でより効果の高いメソッドが好まれました。ですが、この段階での僕は、自分の感じていた《発見の喜びを伝えたい》ことに囚われていて、後輩たちの「早くひけるようになりたい!」という願いに応えることを忘れていました。

教える探求は続く……

 悲しいことに、いまこの記事を書いている今でも「学習者の望み」をどれだけ尊重しているのか、と疑問に思えてきます。自分が発見・学びの喜びを得たいために、学習者を利用しているだけではないのか、と。

 悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか、幸いなことに僕はまだ未完成です。誰にでも、いつでも成長の余地があります。教師としてどれだけの生徒さんの助けになることができるのか。やってみなければわかりません。ですが、「なんとかして助けになってみせる」という思いを持ち続けていくことはできます。こびりついた習慣を、染み抜きしつつ、新しい習慣に染め上げていくんです。なかなかの労作業ですが探求の連続を楽しんでいるところです。

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