2013年初レッスン~「分析」というテーマから「見る」ことを再発見した[2013-01-08]

Violin上達しよう

2013年最初のアレクサンダーテクニークのレッスンは、教師養成課程のクラスでした。今回のテーマは「分析」で、先生はユカさん。ユカさんは僕が初めて生の人間として接したアレクサンダーテクニークの先生なので、ちょっと特別な親近感があるように思う。

ウォーミングアップを終えると「分析とは何か?」「どんな事を思い浮かべる?」という問いかけから思索が始まった。

Link:アレクサンダー・テクニーク – Wikipedia
BODY CHANCE – プロの教師になる!
1.事実を観察する― 見て、聞いて、注意を向けて気付く。 2.理由を解釈する― 考える、説明する、仮説を立てる。 3.行動において実験する―試す、創造性を駆使する、探求する。 …
観察~分析……学び中です

「分析」という言葉から何を思うか?

ぶんせき【分析】の意味 – 国語辞書 – goo辞書
ぶん‐せき【分析】 [名](スル) 1 複雑な事柄を一つ一つの要素や成分に分け、その構成などを明らかにすること。「情勢の―があまい」「事故の原因を―する」 2 哲学で、複雑な現象・概念などを、 …
僕は「切り刻む」ということを最初に思い浮かべた

クラスメートからはいくつも言葉が出てきた。どれも、物事をこまかくわけていくような事であった。そして、観察(情報を集める)ということと、どう違うのかという話は流れていった。ここで1つ実験をみんなでおこなった。「見る」ということを使った実験だ。

「見る」やり方はいくつもある~ピーターの目の使い方を試してみる

ここで、4つの「見る」を体験した。1つは、「今までの習慣通りに見る」、2つめは「集中モード」=「目標物以外は意識的に排除する」、3つめは「目標物も見るんだけど視界にあるもの全部をおぼろげでいいから見えるようにする(入ってくる光を受け取る、感じ)」、4つ目は「目標物の1ミリ奥(1ミリ裏側)をみようとする」

これを2人1組で、相手の動きに付いて行ったり、ついてこさせたりしたんだが、まったく動きの質が違う。見え方も違う。二人の一体感も違う。クラス全体の空気感・雰囲気まで変わる。なんじゃこりゃ。

1つ目の普段どおりはほっとくとして、2つ目の「目標物以外を見ない」これは分かりやすい。まっしぐら、一目散。子どもがお母さんを見つけて走りだす感じはこういうモノだろう。周りの景色は飛ぶように去っていくので見えやしない。そして、その目標に向かう力は一直線で、混じり気がないというか、何者も寄せ付けるスキがない。一方的な力であった。

3つめ「目標物も見るんだけど視界にあるもの全部をおぼろげでいいから見えるようにする(見えてる物は排除しようがないから、光が入ってくるに任せる)」これを「ソフト・アイ」と呼ぶのだと、ゆかさんは言っていた。広角レンズですべてにピントがあった状態かもしれない。これは、穏やかな気持があって目的地に進む感じ。Andanteだな。争いがなくて、対話が生まれそうな平穏さと、好奇心の芽生えみたいなのが感じ取れるような。

4つ目「目標物の1ミリ奥(1ミリ裏側)をみようとする」、モノの表面じゃなくて、その1ミリでいいから奥を見るという感じ。これちょっと面白い感じだった。「奥行き視野」って言ってたな。

いったんまとめておくと、2つ目は超望遠レンズでピントを合わせた感じ。3つ目は広角レンズで見たいものにピント合わせて被写界深度を深くしてピントの範囲を広げた感じ。4つ目は、なんだろう…。いまは説明する言葉を知らない。

ええっ?!イチロー選手の視力は0.01だって?!~どうやってボールを見ているのかい?

焦点が合わせられる中心視野は全体の5%、それ以外の残り95%が周辺視野なんだけど、そこが膨大な情報を脳へ送り込んでいて、脳はそれを処理している。5%でピントを合わせに行くのは「なにか動いているものにピントを合わせようとする動物としての本能」だそうだ。5%は大事な情報である可能性が高いんだけど、残りの95%もあるんだと思えるようにしていくことが大事だと。

かのイチロー選手。裸眼でプレーしているが、いわゆる視力は0.1以下とか。で、野手として守備するときと、打者としてバットを持つときとでは目の使い方を切り替えているのだという。

見ることを変えると情報の価値が変わる~分析の本筋とは違うけど

見ること、を変えたことで、同じ対象物から得られる情報が豊かになった。そして、見え方が変わるだけでなく、見られる側としても何を見られているのかの違いを感じた。

本筋の「分析」とは全然別な話だったのかも知れないけど、「観察」の質が高まると「分析」にも良い影響があるはず。どちらも不可分だからだ。そして、目的や望みがあるから「観察」も「分析」も深まっていって、その結果として「方向性」を、よりクリアなものにしていくことが出来る。良い循環が始まっていくのだな。

メガネ無しでも気持ちいい

見る実験をしている途中でメガネを外してみた。これがなかなかいいことに気づいた。この記事も、いまこの段落から眼鏡なしで書き始めてみた。たしかに、画面上の一文字一文字は、見えていなかったりするのだが、その分自分の思考に意識が向くように変わってきている。しかも急速に。体全体の状態も伝わってきていて、肩や背中にむりな緊張を強いてここまでの記事を打ち続けていたことに気づいている。

で、何が言いたいかというと…

好奇心が刺激されまくることの気持よさが半端ない!ってこと。本人にとって悩みだったはずのもの……たとえば楽器を構えるときの痛みとか……が、その場に居合わせている人々それぞれにとっての新しい発見となって、それぞれの課題解決につながるきっかけになっているということ。

こういう場は、アレクサンダーテクニークのレッスンにかぎったものではないんですが、「アレクサンダーテクニークの先生になろう」という人が集まっているので、悩みを受け入れて、変化させたときの戸惑いを楽しみつつ進んでいけるようになるまでのスピードが速い。めちゃくちゃ速い。しかも、ここに書いたのは、レッスンのごく一部のこと。実際はこれよりも遥かにおおい言葉が飛び交って、実際に体を動かして、見たり聞いたり全身で学んでいるんで。

だから、レッスンのある日はすごーく疲れる。遊び疲れる感じね。おやすみなさい

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