自分のクセを見つけるには?~観察するときのコツ【アレクサンダーテクニーク教師課程に学ぶ】

 僕には「特に問題はない」「深刻な悩みはない」と思っている時があります。皆さんはどうでしょうか?

たしかに、問題がなくうまくいってるかも知れない。
でも、私たちには《常に》良くなる余地がある

 …とアレクサンダーテクニークの教師は、問いかけてくれます。「いまよりも、もっと良くなったら素敵でしょ?」と。

 今週のアレクサンダーテクニーク教師養成レッスンのテーマは「分析」でした。先生はトモコさん。「分析と観察はどう違うのか」という話題になったときにひとつの実験をしてみることになりました。僕は促しを受けて実験台をかって出ました。

JUGEMテーマ:健康

観察と分析の混濁~僕の中のカオス

 僕がする実験は、簡単なものでした。立つ、そして、座る。その時に、自分にどんなことが起きているのかを観察してみる…というものです。やってみてどうだったか。僕は、こんな事を言いました

 「座ろう」とはすぐには思えなくて、「何を観察したらいいかな?」って思ってた。
 で、朝から胸だかお腹の気持ち悪さがあることを思い出した。でも、それは今は「立つ、座るの実験だから」っておいとくことにして、「まずは、座ってみよう」と思った。
 で、「おきたことを見てみればいいや」ってやってみた。でも《うまくいったかどうか》はわかんなくて、「うまくいったのかも知れないな」って思った。「立つ、座る」こと自体は問題なさそうだな、と思った。

 これに対して、トモコ先生からのフィードバックは次のようなものでした。

 いま話してくれたのは、分析と観察の両方のことを話してくれた。自分のなかに、何が観察だったのか・何が分析だったのかという区別はありますか?

 このとき、僕は「あやふやですね」と答えました。話をしながら、話している内容が、あちこちに散らばっていくような気がしていたので、そのようにも答えました。観察について話しているつもりが、いつのまにか分析を混ぜ込んだ内容になってしまっていると、僕は感じていたからです。

観察~あるがままを見るだけでいい

 実験を外から見ていたクラスメートのひとりが、一番最初にこんなフィードバックをくれました。

 『うまくいっていた』と言っていたことが、気になる。

 トモコ先生は、このフィードバック自体をも細かく観察することもできると教えてくれました。前半の「『うまくいっていた』と言っていたこと」は事実なので観察にあたるし、後半の「気になる」は観察ではない何かが含まれているのではないかと考えることが出来ます、と。

 トモコ先生は僕へのフィードバックへと移っていきました。

 いちろーさんの今やっていた《観察》は、《思考のことを観察》しているのかなって、私は思いました。
 「自分はこれを考えている」
 「こうやって、やってみた」
 思考の観察・やっていることの観察を、あとから実況中継みたいな感じで言っていたみたいなんだけど、「うまくいったかな?」「こう思っているのかな」ということになっていました。
 観察の中に、推測が入り込んできていたといえます。

観察にもクセがある

 トモコ先生は、さらに続けました。

 さっきも言ったように、いちろーさんは思考のことは観察していました。全体的に見直したときに、体のことはあんまり観察していませんでした。どんなことが体におきているのかには、ほとんど気づいていなかったんです。
 誰にでも、観察でも分析でも「得意分野」があります。感情のことが得意なひともいれば、動きのことは得意なんだけど思考のことは苦手という人もいます。
 いちろーさんは、思考の部分―Thinkingに関する部分―についてはよく見ていたので、今度は体のことを一緒に見ていきましょう。

 こうした《分析》を経て、実験にもどりました。僕は自分の体に何が起きているのかという観察に移っていったんです。

 クセは、あってもいい……いや、必ずあるのかもしれないです。大切なのは、自分にどんなクセがあるのかを知ることだと学びました。これって、自分だけでやっていたら気づきにくいことなんですよね。教師やクラスメートとともに学ぶ価値は、クセに気づきやすくなることです。自分ひとりで取り組んでいるとしても「なんでいつもこうなっちゃうのかな?」と気づければラッキーです。「なんでいつも…」を分析していくことで、自分が閉じ込めている可能性をひらいていくキッカケが生まれます。

体のどこを観察するのか

体の動きをつかさどる急所を観察すればいい!

 観察のポイントをどこに置けばいいのか……いつも自分の考え方に注意が向いてしまう僕にとっては新しい習慣です。いまこれを書いている時も、思い出さずに書いていました。思い出せてよかった。いちろーグッジョブだぜ。

 もとい、観察のポイントをどこに置くかという問題があります。トモコ先生はこう言いました。

 頭と、胴体のあいだで……動き《movement》としての……押したとか固めたとか引っ張ったとか……体のどこでもいいから、movementとして、体のどこをどうしたかを観察してみましょう。

 僕は、この言葉を聞いた時から「そんなことできるかな?」「いやいや、頭と胴体の間ってなにがあったっけ?」と考え始めていました。どうしても最初に「考え」に注意が向いてしまうようです。でも、ちょっとずつ、頭の存在や、胴体の存在を思い出して、頭の下に脊椎があって、腰やら足が《うまいこと》つながって――どうつながっているかは詳しくは知らないせいで思い出せないけど――頭を支えてくれているのを思えるようになってきました。そして、さっきまで立っていた僕はいつのまにか座ることができました。

「自由な頭と、ラクな首」だけでもいい

頭を動かしたら、あとはわかんないけど全部ついていっちゃった

僕がいつの間にか座れちゃったときの言葉です。「それが動きを観察することですよ」と、トモコ先生は言ってくれた。これに続けて僕はこんな事を言いました。

 『《自分の思ってるもの》と、《本来はこうなんじゃないの?》というのがズレてるよ』と教えてもらっているようなものを(教師が手を添えていたことから)感じたので、それに従って「これでいいのかな、いってみよう」と思ったら、いつのまにか座ることができた。
 動くときに、《動く前》から《動かすための考え方を変えること》ができるんだなって思った。

 まさに、これが「抑制(inhibition)」と「方向性(direction)」の手順ですとトモコ先生は教えてくれました。

 また、座っているところから再び立ってみました。

 あまりにもいろんなことが、あっという間に起きたので、観察が追いつかなかった!最初に頭が動いて、その後にいっぺんに色んなことが起きているらしいことはわかったけど、細かくはわからなかった。

 体を動かしたのか、動いちゃったのかを見ていけばいいということがわかりました。動きは思考が作り出します。思考を無駄なく、邪魔せずに動きに作り替えるときに大切な働きをしているのが「頭と首の接点となる関節」です。自分の面倒をみるうえでは、ここだけ気をつけておけばオッケーのようです。これが、ひとさまの面倒を見ようということとなると、さらに磨き上げていく必要があるんですねー。でも、楽しい探求です。

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