「バイオリンは、体のできあがってしまった大人には負担が大きいから」などという人がいます。また、こうしたことを理由にあげて「大人になってから始めるなら、バイオリンよりチェロにしたほうがいいよ」と口にする人は僕の周りにもいます。
これって、本当でしょうか?
僕の考えだけ先に言ってしまいます。
「やりたい楽器をやったらいいじゃないですか」
いかがでしょうか。
もうちょっと書いてみます。
「バイオリンは、体のできあがってしまった大人には負担が大きい」を疑う
「バイオリンは、体のできあがってしまった大人には負担が大きい」
これって本当でしょうか?
これって誰の利益になることでしょうか?
仮に、本当だったとしたら、いったいどんな負担を指して言っているのでしょうか?もしも本当でないとしたら―つまり、「大人であっても子どもであっても、ヴァイオリンを弾くことは負担 ではない」としたら、どんな気持ちがしますか?……バイオリンをやってみたくなりますか、やってみたくなくなりますか?
バイオリン探求の旅は「負担」ではなく「刺激」
もうひとつの問いかけをする代わりに、僕がオススメしたい実験があります。
「負担が大きい」を「刺激が大きい・強い」といいかえてみることです。
「バイオリンは、体のできあがってしまった大人には刺激が大きい・強いから」
いかがでしょうか。
酒もタバコも、世の中の薬も「おとな用だから、子どもには使っちゃダメ!」ということはあっても、「子ども用だから、おとなには使っちゃダメ。絶対通用しない」なんてことはありますか?……ないですよね。子どもには教育のためにとバイオリンを習わせておいて、自分のことは「むりむり」と可能性を捨てちゃってないですか?
バイオリンでもチェロでも、どんな楽器でも、「それまでに経験したことのない体の使い方」を学習するという意味で違いはありません。たしかに、バイオリンを習い始めたせいで体の調子を狂わす人はいます。でも、それは大人だけが言うことではありません。子どもであってもバイオリン演奏をしているために体の不調が生じたと訴える人はいます。
その一方で、痛みや苦痛を感じることなく演奏する人もいます。また、痛みや苦痛があってもそれを、何らかの方法で取り除くなどして解決したうえで演奏している人もいます。
サポート(指導者)の重要性~苦痛を喜びや楽しみに変えてゆくために
「苦痛との付き合い方」は、楽器演奏に限ったことではないように思います。自転車にのること、スキーやダイビング・射撃・料理など道具を使った活動、走る・歩く・立つ・読むなどの様々な活動技術は、僕だけでなく人間であれば誰もが生まれてから試行錯誤のうえに獲得し、学びながら上達させてきた技術であるといえるのではないでしょうか。
未知の領域を探求することは刺激に満ちていて、楽しくもあれば、苦しくもあります。振る舞い方や反応の仕方によっては、探求・学習する自分自身を傷つけてしまうおそれがあります。ここに、指導者の存在意義があるといえるのではないでしょうか。《指導者は学習者が学ぶために周囲のすべてを整える責務がある》と言われるのもこのためだと、僕は思います。
大切な事は、「やりたい事の 《ためにならないこと》を見付け出す」ことです。バイオリンをやりたい。その思いを邪魔しているのがどんなことなのか、ひとりでも多くの人のお力になれるように、僕自身がもっともっと明確にしていきます。