「勇気」が音楽を成長させるって思った。

 先日、室内楽オーケストラの練習がありまして。これまでに比べると指揮者以外の発言が増えてきました。発言する人が増えてきたことを「素敵なことだな」と、僕は感じました。

 合奏に参加するって、奏者の立場からすると「音を出せばいい」ってことなんですよね。「指揮者のリクエストに応えるのが、奏者の役目」という立場ですな。これに対するもうひとつの立場を考えてみると「指揮者に《こうじゃねーの?》って挑戦を仕掛ける奏者」っていうのもあるんじゃないかと。

 それぞれの奏者が「好き勝手にやろうぜ」というのでは合奏が成り立たないわけで、かといって「なんでも、あなたの言うとおりにしますんで」というのでは「じゃあ、生身の人間よりも、リクエストを精密にこなす従順な演奏マシンを雇ったほうがいい」みたいなことになっちゃいませんか?と思うわけです。生身の人間があつまる意味って絶対あるはずなんです。どんな意味があるかは、そのときどきで変わってくるでしょうけども。

音…‥勇気の結晶

 先に言っておきます。「勇気」って「失敗してもいいからやってみよう!」ってことです。「なにもしないこと」からの脱却が勇気です。成功と失敗についての捉え方の大転換がここにあります。この意味でいうと、《本当の失敗》って何かといえば、「失敗が怖いから何もしない」という《臆病》のことを指すわけです。

 音って、出してみないと出したかったものになってくれるかどうかがわからないものです。《音を出し続ける限り、失敗と隣り合わせ》という考え方もあります。でも、どんな音が出るかは出してみなければわからないんですよね。奏者にできるのは「こんな音を出そう」と思い描くことです、他に何があるでしょうか。

 合奏とは別次元の話になりますが、個々の楽器練習としては「こんな音を出そう」のために「この楽器をこう扱うと《どんな音が出るのかな?》」という実験を積み重ねることもできます。ただ、気をつけたいのが「こないだのやり方で、必ず同じ音が出せるという保証はない」ということなんですよね。 合奏でも実験はしますよね――楽器間のバランスはどうだ、とか――

 「何度でも同じ音を出せてこそ、技術だ」というような言葉を何処かで聞いた覚えがあります。技術を磨き・鍛えあげるという意味で真理だと思っています。けれど、技術は音楽のための手段にすぎないと、僕は自分に言い聞かせています。「音楽のために技術を磨こう」という新鮮な向上心を蘇らせるために僕はこう言うようにしています……「どんな条件下でも、出したい音を出してみせる」……これ、すごくハードル高くてメゲそうになるんですが、オススメします。なにがハードルを上げてるかって言うと、「どんな音を出したいの?」を絶えず突きつけられるってことなんです。だからハードル高いけど、すごく楽しい探求になるんです。もうちょっと言うと「出したい音を遥かに超えた、素晴らしい音楽になっちゃって感激する」ことも多いわけです。

声を発するのも勇気!

 最初の話、オーケストラの練習のときのことに戻ります。発言する人が増えたんです。なぜ僕は嬉しいと思ったのか。「もっとできることがある」「もっとよくなる余地がある!」っていうことが、リアルに声になって会話が生まれてきたからです。指揮者からの《指示》ではないものが、音楽にも通い始めたように感じました。

 言葉がなくても通じ合えるほどの音楽家集団もあるんだろうけれど、楽器や指揮棒を通して通じなければ、日本語喋ったっていいじゃないか!…練習ならなおさらだしってことです。

 だから、発言してくださる人には、ほんと感謝!

 ……こうして楽しみながら、シンフォニエッタ・ソリーソやってます。

 Link: シンフォニエッタ・ソリーソ 第1回演奏会のお知らせ

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